天下分け目の戦、関ヶ原の合戦は、日本中の大名たちにとってまさに信賞必罰が徹底的に行われた事件であった。徳川家康の業績評価基準は明確で「味方をしなかった者はすべて敵」である。中立という立場も認めなかった

 

佐竹義宣(さたけ よしのぶ)豊臣政権下においては、常陸国全域に支配を及ぼした54万石もの大大名だった。源氏の血を引く名門である。しかし、石田三成に恩を感じていたので、絶対中立を守った。これが家康には気に入らなかった。

そこで、家康は合戦後の処分の為に義宣伏見城に呼び出した。そして秋田へと移封を命じたのだ。しかも石高は告げないところが家康の意地の悪さである。実際には20万石への減封であった。ただし、正式な石高が決定されたのは、佐竹義隆の代になってからである。明らかに処罰としての左遷だった。

 

しかし、佐竹義宣は意外にも落胆はしなかった。それよりも今後のことを明晰な頭脳の中で青図を描いていたのである。
家康から転封を命じられると、その足で秋田に直行した。水戸へは寄らずに急使を使わし、転封のことを告げた。

直行するときに連れて行った家臣は僅か93人である。国元では大混乱が起こった。なぜなら、義宣秋田へ移住する者達の人数を厳しく制限したからである。処罰としての転封なので、石高が大幅に縮小されることは容易に想像できた。
これまでの配下全てを養えることはあり得ないと考えての人数制限だったのだ。

そして義宣は新天地で徹底的な組織改革を断行することを決意したのである。現代で言うリストラだ。

おそらく、義宣家康に呼び出された段階で既に考えがまとまっていたのだろう。義宣秋田で重用したのは全て新人である渋江政光梅津憲忠・政景の三名だった。その三名に思い切って藩政を任せたのだ。

 

この三人は実に有能だった。移住期のドタバタしている中で、新城(久保田城、秋田城)の建設、城下町の建設、検地、知行割りなどから、新体制でのマニュアル作成までやってのけたのである。

義宣が三人を登用した理由は明確だった。「これからの時代は軍人では無く、経営者でなければならない
義宣にはこれからの社会がどう変わっていくのか、はっきりと見えていたのである。実に先見性のあるトップと言えるだろう。

転封が落ち着いてくると、渋江政光梅津憲忠政景の三名に対する旧臣たちの不満が募った。三人の登用は移封期の混乱対策、つまり臨時登用だと思っていたのだが、義宣はこの三名を家老にしてしまったからである。

三人の地位と権力が確定すると、旧臣たちはこぞって三人の命を狙い始めた。これに対し、三人は結束し、いつも寝食を共にして、お互いの身を守ったのである。

しかし、狙う側は執拗だった。このことを知った義宣は三人を狙う旧臣たちの内、5人を粛清した。これは三人の為にしたことではなく、義宣組織改革に従わない者を切り捨てたということだったのだ。

 

現代においてもサラリーマンにとって最も恐怖なことは人員削減という名目の、リストラ(会社都合退職)である。
しかし、社会は常に変革する。その変革に適合できなければ会社ごと潰れてしまう。これはダーウィンの有名な「種の起源」でもいわれていることだ。

特に切り捨てられやすいのは、中間管理職である。常に流れを読み、素早く行動することが必要だ。

旧態依然の会社は必ず大リストラを断行する。そうでなければ倒産してしまう。今や安定した企業などは日本には存在しないと言って良いだろう。