「とかくメダカは群れたがる」という名言があるが、西洋にも「とかく同じ色の羽を持つ鳥は群れを成す」(Birds of a feather flock together.)ということわざがある。
人間は本能的に集団化の欲求が強くあり、組織の中には必ずこのような非公式の集団が自然とできてしまう。これをいわゆる「派閥」と言う。それぞれの派閥の中のトップはその組織の実力者だ。
派閥の存在自体は悪では無い。互いに競い合い、切磋琢磨し組織全体の活性化と成長につながるものだからだ。しかし、得てして人間というものは他の派閥を嫌い、影で悪口を叩いたり果ては裏で足を引っ張るようなことまでやってしまう。
このような派閥抗争の中で勝ち残っていくのは至難の業だ。どんな派閥にも栄枯盛衰があり、特定の派閥に属していれば御の字というわけにはいかないからだ。
この難題を誰にも教わらずやってのけた歴史上の人物がいる。その名は木下藤吉郎。後の豊臣秀吉である。彼のやり方は「風見鶏」だった。
織田信長は人材登用の天才であった。殊に、右腕左腕にそれぞれ羽柴秀吉と明智光秀を置いたことは特筆すべきである。両者とも武家の出身ではなく、自由で柔軟な発想の持ち主で行動力もあった。
しかし、この2人の生き方は極端に異なっていたのである。光秀は自分の配下だけを大切にし、他の派閥には無関心と言うより、無視に近い姿勢であった。主君である信長の所へさえ、ロクに挨拶にも行かなかった。
秀吉は反対に家中の全ての派閥に顔を出し、媚びを売った。信長の所へはもちろん、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家の所へも頻繁に贈り物と共に挨拶に行った。それぞれの派閥で他の派閥の悪口を聞いても全く意に介さずあいずちを打った。
秀吉は大名になるまでに全ての派閥を利用したのである。ねねと結婚するときは前田利家に仲人をしてもらった。木下藤吉郎から羽柴秀吉と改名したのも「羽柴」の「羽」は丹羽長秀の名から、「柴」は柴田勝家の名からである。
秀吉は乱世において全て力がものを言うことを知っていたのだろう。しかし、自分の力を誇示すると「出る杭は打たれる」。そのため、全ての派閥に恥ずかしげもなく謙り媚びを売った。相手に歓迎されなくてもお構いなしという徹底ぶりである。
この秀吉のやり方は自分自身の立身出世のためだけではなかった。秀吉には新しい部下達がいた。元々は農民をしていた土着の侍で、従来は人間扱いされなかったような連中である。派閥は力を持ちすぎると人事に介入するようになる。こういった派閥は組織のトップから粛清されるか、そうでなければ組織そのものが崩壊への道を辿ることになってしまう。
秀吉が臆面も無く風見鶏を演じ得たのは、胸中に常に部下の存在があったからである。
特定の派閥に属した結果、不運にもその派閥のトップが粛正されると当然その派閥に属していた者たちも巻き添えを喰らってしまうことになる。
恥も外聞も無く風見鶏という道化師を演じたのは他ならぬ自身の部下達を思ってのことだった。
これは現代にも通じる、正に管理職の責任と言えよう。