前田利家と言えば織田信長に大変可愛がれ、忠臣として知られる戦国大名の一人である。「槍の又左」の異名を持つ程の槍の達人だった。幼名は犬千代

 

14歳の頃に小姓として信長に仕え、青年時代になると赤母衣衆筆頭に抜擢され、多くの与力を添えられた。
「母衣衆(ほろしゅう)というのは戦国時代の連絡将校である。戦場で馬に乗って駆け巡り、大将の命令を伝えて回る役目だ。
しかも「赤母衣衆」である。これは赤と黒の母衣衆の母衣を身に着けた、信長直属の親衛隊としての象徴だった。

正に将来を期待される若者で、信長「犬、犬」と呼んで重用していたのである。信長の言う「犬」とはもちろん、利家の幼名のことだが、秀吉のことを「サル、サル」と呼んでいたように信長流の親愛の証なのだ。

 

ところで、戦国の世は武将の男色は当たり前というより、たしなみの一つのように考えられていた(秀吉だけは例外である)。信長もその例に漏れず、両刀使いだった。主に小姓が相手をしたといわれている。

この信長の愛人(男性だ)に拾阿弥(じゅうあみ)という茶坊主がいた。性格がとても悪く、信長が目にかけている家臣達のことを片っ端から、事実を曲げたりありもしない事柄を作り上げたりして寝屋で信長に悪口を叩くのだ。

信長は、自分の部下を評価する基準がハッキリしているので、決して拾阿弥の思惑通りにはならなかったが、家臣達にとってみれば、拾阿弥は疎ましい存在だ。しかし、殿の寵愛を受けているので、誰も手が出せない。

 

これを知った利家このままではいけない」「放置すれば信長様の評判にまで関わることになると考え、決意した。

ある日、利家は城の天守閣の下で拾阿弥とすれ違いざまにいきなり抜刀し「この奸人め!」と、斬殺してしまったのである。この一部始終を見ていた信長は激怒した犬!なぜ拾阿弥を殺した!」
利家は答えた。「こいつを生かしておくことは、殿のためになりませぬ!」

しかし、まったく怒りが収まりそうにない信長の様子を見て、利家は我が身が危ないと判断し、即座にその場から出奔した。この事件は俗に、笄斬りと呼ばれる。

 

当初、この事件において利家の厳罰を避けられなかったが、柴田勝家森可成らの信長への取り成しにより、出仕停止処分に減刑され、浪人暮らしをすることになった。利家は尾張国内の村里にひっそりと隠れ住んだ。利家いつか信長様も解ってくれることだろうと思っていたのである。

密かに隠れ住んでいたはずだが、いつの間にか、かつての同僚たちに嗅ぎつけられてしまった。そして各々がひっそりと訪ねてくるようになったのである。

 

この頃のことを利家あのとき、訪ねてくる友人達の中で、本当に親身になって心配してくれたのは ほんの二、三人で、後は逆に信長様に自分の悪口を言ったと後年になって語っている。

不遇の時にこそ、人間の本心はよくわかる、というのである。

赤母衣衆という信長のエリート集団の中にいた頃、あれこれとうまいことを言っていた友人達の本心がよく解り、利家は人の心というのはこれほどまでに冷たいものかと、心底寂しい思いをした。そして、他人に頼っていたのではいつまでも信長様に理解して頂ける日は来ない、と考えた。自助努力が必要だと意を決したのである。

 

それからの利家信長の合戦に一人でこっそり参戦した。疾風のように現れて敵将を討ち、疾風のように去って行く。
去るときにはわざと信長本陣の前を駆け抜けた

合戦の度にまるで月光仮面のごとく、疾風のように現れて疾風のように去って行く利家のことは有名になった。

桶狭間の合戦でも敵将を一人討ち、その後の森部の戦いでは二人もの敵将を討ち取った。なかなか怒りが解けなかった信長だが、さすがにこの武勲には感嘆した。そしてようやく帰参を許されたのである。

エリートコースをまっしぐらに急上昇していた利家だが、挫折したことで人間の本心というものを知り、それが良い経験となって自分自身を大きく成長させたのだった。

 

利家に限ったことではないが、人間を大きく成長させるきっかけとなるものは「挫折」「失敗」であることが多い。挫折から復帰する精神力と知恵というのが成功者になるための条件なのだろう