日本では、企業によらず、官公庁によらず、「ウチ(家)意識」が強い。立花宗茂は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将で、この一家意識が強かった人物である。彼の人生は終始「人の和」だった。

 

宗茂が率いる立花軍団は、まとまりの良さと勇猛さで名を馳せた。宗茂「私の戦いは、すべて義のためのものである」と言って、筋の通らない戦いには断固抵抗した。特に侵略には死力を尽くして抵抗した。当時、宗茂のいた九州を荒らし回っていたのは、大友宗麟島津義久である。この乱戦が、豊臣秀吉の九州侵攻を招いた。

宗茂大友のために最後まで島津に抵抗した。そして、秀吉に従い、島津攻めに参加した。ついに島津秀吉に降伏したので、秀吉島津に旧領を安堵した。そして秀吉宗茂には13万2千石を与えた。柳川藩立花家の始まりである。

大名になった宗茂「人の和」を軸とする立花一家の設立に邁進した。城中の和の火は領民にも飛び火し、宗茂の領国内では、人の和運動が広がった。

しかし、平穏は長くは続かなかった。関ヶ原の合戦(1600年)が始まった。宗茂「秀吉様のご恩に応えよう」と言って、石田三成の蜂起を「義戦」と見て、これに参加した。立花一家を率いて、率先、関西に上り、大津城を攻め落とした。

その留守に隣国の鍋島直茂(なべしま なおしげ)立花城を攻撃した。鍋島ははじめ石田軍に味方していたのだが、徳川家康のご機嫌を取る為、急に旗色を変えたのだ。裏切りである。裏切りはメインの関ヶ原だけで行われたのではなかった。

 

天は家康に味方し、石田軍は負けた。

宗茂鍋島の背信に憤怒し、鍋島攻撃を決意したのだが、加藤清正の説得で我慢した。そして潔く城を明け渡した。
清正宗茂「家来を全員連れて、しばらく私の城(熊本城)でご休憩なさい」と言った。宗茂は一家を縮小し、100人ほどの家来を連れて熊本城に入った。

そしてある夜、突然「城を出る」と言って、家来を24人に縮小して、密かに熊本城を出た。いつまでもここに居ては、清正家康に狙われると思ったのである。

立花一家は更に小さくなった。しかし、このことが洩れ、藩境を越えると、旧立花領のの領民たちが大勢待ち構えていた。そして、「私たちと一緒に柳川にお戻りください。今の城主田中などは追い出してお殿様に城をお返しいたします」と言った。

宗茂「気持ちはありがたいが、それでは義に背く」と言って去った。領民たちは泣いて見送った。

宗茂は江戸に出た。24人の一家が宗茂の面倒を見た。このことが将軍秀忠の耳に入り、5千石の旗本にしようと言った。一家24人「馬鹿にしている!」と怒ったが、宗茂「いや、受けよう。士は求められるところに赴くべきだ」と言って淡々と秀忠の旗本になった。その後、秀忠宗茂を東北の棚倉に封じ、1万石の大名にした

秀忠にすれば、深い考えがあってのことだったが、立花一家24人には、それがわからなかった。「奥州棚倉など、日本の僻地です。辞退しましょう!」と息巻いた。しかし、宗茂「いや、僻地などと言っては棚倉の民にすまない。同じ日本の土地だ。行こう」と言った。

宗茂「人間の運命は他人が決める」ものだと思っていた。どんなに才能があろうと、がなければどうにもならない。しかし、というのは決して偶然ではない。は他人の考えの集合体だ。他人が何を考えているのか自分にはまったく予想がつかない。

 

宗茂に旗本になれ、棚倉の大名になれ、と命ずるのは将軍秀忠だ。この国最大の権力者である。その秀忠宗茂に会ったこともなければ、つき合いがあるわけでもない。

宗茂のことは他人から聞いている。宗茂「義に厚い武将」「部下愛の深い武将」と噂する者は多い。それを聞いて、秀忠「風見鶏の多い現在に珍しい男がいるものだ」と思った。その宗茂従って離れない一家の連中も珍しい

秀忠は心中で「宗茂に九州の旧領を返してやろう」と考えていた。しかし、それには手順が要る。父家康に敵対した彼を、いきなり元の大名に戻すわけにはいかない。

罰としての改易(浪人) → 旗本 → 小大名 → そして元の大名

このようなプロセスを考えていたのだ。段階を踏んで上がるように計画したのである。そして段階ごとに「立花宗茂は義に厚い武将だ」という広報活動を行う。次の上の段に上がるための世間への説得であり、またその承認を得るためである。その点、秀忠は慎重だった。

秀忠のそんな考えを立花一家24人はもちろん、宗茂自身も知らなかった。宗茂は言葉通り「士は求められるところへ赴く」ということで、人事には淡々としていた。つまり「人事は他人が決めるものだ」と割り切っていたのだ。

そういう宗茂の無欲さや淡泊さは、秀忠もよく知っていた。だからこそ、宗茂を正しく処遇すれば、徳川忠臣になる、と確信していたのだ。

元和六(1620)年、宗茂柳川に戻った。11万石を与えられた。旧臣、領民が歓声を上げ、涙を浮かべて走り寄って来た。旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。「和」をもって団結し「義」を貫き通した、珍しい一家の勝利であった。

 

私は長らく外資系企業に勤めていたが、様々な部署に異動を命じられた。意味がよくわからない異動もあった。開発部門やアフターサービスから始まって、シンガポールの工場へ出向を命じられ、生産ラインの歩止まり向上(品質管理)をおこなったこともある。企画(マーケティング)や販売促進、広報(広告)関連の部署にいたこともある。果ては本社のある米国(ニューヨーク)に出向を命じられたときは驚いたものだ。

帰国してきたら、基幹部門の管理職(部長)の椅子が待っていたそこで初めていままでの一連の人事異動の意味が理解できたのである。つまり、会社は私を様々な部署で仕事の経験をさせ、更に本社へ出向させることで箔を付ける、そうして出世させてくれたのだ、と。

社内上層部の誰がそうした計画をもっていたのかは、今でもわからない。それはきっと宗茂も同じ事だったのだろう。

 

このように、人事異動というのは深い意味があって行われていることもある。やりたくない仕事の部署へ異動になったからといって拗ねているようでは、出世は叶わぬ夢というものだろう。

「士は求められるところへ赴くべきだ」

組織人として含蓄のある言葉である