筒井順慶(つつい じゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国大名である。得度して順慶と称する前は、藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていた。父親の名は筒井順昭(つつい じゅんしょう)

 

秀吉の名参謀だった黒田官兵衛黒田家異見会というのがあったことは有名である。藩主と家臣が、その場ではまったく同等の立場に立って、現在問題となっている重要議題について自由に討論する、という制度である。

この制度は黒田家において非常に上手く運営され、明治維新まで黒田家安泰の礎となった。言わば、重役の合議制による運営が功を奏した一例である。

 

この「異見会」を最初に始めたのは、実は黒田家ではない。「異見会」というものの創始者は筒井順慶だ。本能寺の変織田信長が討たれたときも、急いで引き返してきた羽柴秀吉明智光秀を攻めたときも日和見を構えていたため「洞ヶ峠の順慶」「日和見の順慶」などと、歴史的に評判の良くない人物の一人である。

出身は奈良興福寺の僧兵だ。父親の筒井順昭は野心家で、寺を飛び出し、武力を蓄えて地域の豪族になった。しかし、この順昭は息子の順慶が3歳の時に病死してしまう。家臣たちは相談して順昭の影武者を立て、子の順慶が育つまで重役たちの合議制で筒井家を支えたのだ。

このような環境で育った順慶であるから「家臣の合同運営」に慣れており、また家臣たちにとっても、この合議制は筒井家の伝統のようなものになっていた。

 

織田信長に謀反を起こした明智光秀は、この筒井順慶細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)両名と親友だった。本能寺の変の際、光秀は両者それぞれに「味方してくれ」との使者を走らせた。

細川幽斎光秀の再三の要請に対し「此度の光秀殿の謀反に味方せず」ときっぱり断った。幽斎は主君である信長の死に殉じて剃髪して田辺城に隠居、家督を息子の忠興に譲ったのである。幽斎のこの英断が、その後の細川家を明治維新まで安泰に導くことになる

 

これに対して、筒井家は非常に困惑した。この明智光秀が持ちかけた相談事というのは彼らにとって無理難題であり、迷惑この上ないものだったからだ。
順慶は例の「異見会」を招集し、光秀からの申し入れを議題にした。順慶細川幽斎ほどの先見性と決断力があれば特に問題になるようなことではなかったのだが、彼は子供の頃から家臣たちの「異見会」に飼い慣らされてしまっていた。言わば、「藩主機関説」が既成事実として成り立っていたのだ。

一同は事の重大性は認識したものの、総合的な結論は「あちらを立て」「こちらも立てる」という玉虫色になってしまった。彼らは事に当たってどう対処すべきかということよりも、どのようにうまく口先巧みに責任逃れをするか、というプロフェッショナルになっていたのである。現代で言えば、国会の答弁のようなものだ。

結局「異見会」の結論は、

  1. 光秀には「味方する」という返事だけ出して傍観する
  2. 秀吉には返事はしないが軍勢を出すことで味方する意思を表明する
  3. いずれにせよ、両方の戦況をみてから味方につく方を決める

という呆れたものになった。
順慶はこれに従い、後世に「ふたまたごうやく」と呼ばれる汚点を残したのだった。

 

日本の義理や人情という価値評価は相対的に見て「相談を持ちかけられた側の選択」で行われる。相談を持ちかけた側の非というものは、ほとんど問題にしない。しかし、持ちかける側にいつも筋や道理、正義があるわけではない。なかには無理難題としか言いようのないものもある

「赤穂事件」忠臣蔵)などは、その最たるものだろう。江戸城内ではいかなることがあっても刀を抜いてはならない、という掟を破ったから浅野内匠頭は切腹させられたのだ。それを逆恨みして殺されたのでは吉良上野介もうかばれない。

ひどい話ではあるが、同様のことは現代でも組織・個人に関わらずよくあることだ。しかも、日本人はたとえ無理難題でも「美しく滅びよ」という滅びの美学を持っていて、他人の不幸を喜ぶところがあるから実に厄介である。

このように、一度目を付けられてしまうと、付けられた方は嫌でもこの「滅びの美学」に従うことを強いられてしまう。忠臣や貞女などのレッテルは、実はそうした無責任な連中が押しつけた悲劇なのだ。

筒井順慶は歴史に汚点を残し、36歳の若さで病死した。そしてこの筒井家もやがて絶えた。吉良上野介と同様、一つの時代のスケープゴートになったのである。

 

「滅びの美学」などに酔っていては命がいくつあっても足りない。無責任な連中の戯れ言は超然と退け、己の判断力を信じ、己自身の責任において、己の行動とすべきである。細川幽斎を見習うべきだ。