天野康景(あまの やすかげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名である。徳川家康の家臣。駿河国興国寺1万石の藩主。
天野康景は三河三奉行(高力清長、本多重次、天野康景)と呼ばれたうちの一人であり、民から支持を受けていた人物であることは以前の「やさしい鬼」(本多重次)で紹介している。
このやさしい鬼である本多重次(作左衛門)と、天野康景は親友だった。天野は、家康が織田信秀(信長の父)の人質だった少年時代から家康に仕えていた忠臣である。家康が最も深く信頼していた人物の一人だ。
天野は植林に熱心で、特に、彼の持つ竹林は有名だった。とても良質な竹だったので、家を建てるときは、家康のみならず、同僚もよく分けてもらっていた。
しかし、ある頃からこの竹に目を付けた者が盗みに入るようになった。盗伐である。あまりに繁茂に盗伐されるので、天野は数人の番兵をつけた。
慶長11年(1607年)のある夜、事件が発生した。
数十人の盗賊が侵入して来て、竹を伐採し始めたのだ。番兵がこれを見つけ、争いになった。だが、盗賊の方が圧倒的に人数が多いので、番兵に聞く耳を持たない。番兵は盗賊たちに舐められてしまっていたのだ。そして、番兵はやむを得ず盗賊の一人に斬りつけ、盗賊たちを追い払った。
事件はこれで収まった様に見えたが、その翌日、番兵に斬られた盗賊が家康に訴え出たのである。
「我々は家康様直轄の農民です。昨晩、ちょっとしたことから天野様の足軽と口論になりました。我々は話し合いで穏やかに解決しようとしましたが、足軽はいきなり斬りつけてきたのです」と言って、身体の傷を見せた。
この盗賊たちは、自分たちの非は棚に上げて、逆に居直ったのである。それは「我々は家康様直属の者だ。それを陪臣の足軽が斬るというのは、許せない」という、驕りの気持ちから発していたのだ。大企業の末端社員が下請け企業の社員を蔑視するようなもので、弱者への差別だった。
困った家康は法に強い本多重次に解決を命じた。本多は親友の天野のところに行って事情を聞いた。天野はありのままを話した。天野の言うことは道理に適っていたので、本多重次は家康に天野の話をした。そして「天野の話は筋が通っています。悪いのは直轄領の農民の方です」と言った。
しかし、家康はこれに対して怒りを露わにして「理由の正邪などどうでもよい!農民を斬った足軽を引き渡せ!見せしめに成敗してくれる!」と激昂した。これに呆れた本多重次は「そんなお役は御免被ります」と言って、引きこもってしまった。
仕方ないので、代わりに本多正純(ほんだ まさずみ)が天野のところへ行って、家康の指示を伝え、「下手人を引き渡してくれ」と告げた。本多正純(父は正信)は家康の側近であり、彼も家康から絶大な信頼を受けていた人物だ。しかし、これに対しても天野は敢然と拒否をした。そこで二人は口論になってしまったのである。
天野は「事は単純だ。竹を盗みに不法侵入して来た盗賊に非がある」と主張する。
本多正純は「これは事の是非の問題ではない。公領の農民が私兵に斬られたという家康公の面目の問題なのだ」と諭した。
しかし、天野の考えは頑としては変わらなかった。「部下のしたことは私自身の責任である」と、天野は決して引き下がらなかったのだ。
本多正純は戻ってそのまま家康に報告した。そこで家康は激怒してしまった。家康も退くに退けなくなってしまったのである。ここに家康の人間としての器の小ささが窺える。そして「あくまでも、その足軽を引き渡させろ」と厳命した。
本多正純が再び天野のところへ行って家康の厳命を伝えると、天野は「盗賊を正しいとする政治は国のためにならない」「部下の罰は私が代わって受ける」と、興国寺1万石を返上してどこかへと退散してしまった。
天野は自ら浪人となったのである。天野の気骨に感動した本多重次や大久保忠隣(おおくぼ ただちか)は、交代で天野をかくまい、養った。天野は「申し訳ない」と友人の武将たちに感謝した。
このことを知った家康は天野に「私が冷静さを欠いていた。戻って来てくれ」との使いを出したが天野は戻らなかった。そして、天野はその年のうちに神奈川県足柄の西念寺に入って出家した。事件の7年後、慶長18年(1613年)2月24日に、天野はそこで死去した。享年77歳だった。
一人の部下を守り抜いたが故に得た、天野の異色な、しかし幸せな生き方であった。
ここまで泥をかぶれば見事としか言いようがない。現代でも会社組織内で「部下の失敗は上司の責任」とはよく言われるが、果たしてこれを率先垂範している者はどれだけいるのだろうか。
ほとんどが「部下の手柄は自分のもの」「部下の失敗は本人の怠慢(責任)」という、無責任な管理職が99.9%を占めることだろう。
私自身も長年、会社という組織に所属していたが「部下の失敗は上司の責任」を垂範している管理職など、唯の一人も見たことがない。皆、責任逃れをすることで頭の中がいっぱいなのだ。
私自身が管理職だった時は、極力、部下が仕事の失敗をしないように留意した。失敗は良い経験とは言われるが、やはり組織の中では減点となる。しかし、たとえ遅々としていても失敗無く仕事をやり遂げれば成果として認められるし、何よりも本人の自信となる。
正直言えば、私も、部下に失敗はして欲しくなかったのだ。部下が上司を選べないように、上司もまた優秀な部下ばかりを選ぶことなどできないからだ。そういう意味で、部下を守り抜いた天野康景は、私も家康も、及びもつかぬ器の大きな人物だったと言える。
天野康景ほどに責任を追うことは現実には難しい。特に養うべき家族がいる者にとっては酷な話だ。しかし、少なくとも「部下の手柄は自分のもの」「部下の失敗は本人の怠慢(責任)」という人間は組織から消えて欲しいものである。