石田三成(いしだみつなり)は、安土桃山時代の武将・大名である。豊臣秀吉政権下の重臣であり、秀吉の死後、関ヶ原の合戦徳川家康と戦ったことは有名である。


三成
は子供の頃から頭の良さで出世した人物だ。小坊主時代に秀吉と遭遇したときの、お茶をだんだん熱くするエピソードは、誰もが知っていることだろう。

また、大阪淀川の堤防が決壊したときに、米俵で決壊箇所を防ぎ、水が引くと「丈夫な土の俵を持ってこい。濡れてはいるが、この米俵と交換してやる」と、近くの村にお触れを出した話も有名だ。

に交換してもらえることなんて思いも寄らないことだから、村人は歓喜して丈夫な土俵を作って持って行った。
このような臨機応変な対応は、やはり頭の良い人間でないとできない土の俵が間に合わないから、応急処置として米俵を使うという発想も、頭の悪い人間には思いのつかないことだろう。こういう話はいかにも三成らしいものを感じさせる。


三成
の主人であった秀吉には、二つの特性があった。それは現場の人間の使い方に卓越している」「城の攻略は、土木工事的包囲戦を重視し、無駄な殺し合いは極力避けるということである。本能寺の変のとき、秀吉高松城を水攻めにしていたこともこれに準じる。

三成忍城(武蔵七名城の一つ)を攻撃する際に、秀吉のやり方にならって水攻めにすることにした。忍城難攻不落の城として有名だったので、自軍の兵力消耗を避けようと考えたのだ。そしてこれなら配下の者たちも喜ぶだろうと思った。

しかし、三成の部下たちはそうは思っていなかった。士気が非常に高揚していて、武器を手に取って忍城を落としたかったのだ。それを、水攻めだと言われて堤防を造る土木工事に作戦を変えたものだから、がっかりしてしまい、士気は急速に低迷してしまったのだ

 

当然、この土木工事は思うようには捗らなかった。そこで三成奇怪な対応を行った。この水攻め工事に、付近からの農民を大量に動員したのだ。しかも、高い日当と米を惜しげもなく与えた。いままでの徴発とは違うので、農民は喜んで参加した。

これを聞いて、忍城の中から大勢の兵が農民に化けて工事に参加した。そしてその米はそのまま城内の兵糧とし、金は米に変えてこれも忍城内に持ち込んだ敵に塩を贈るどころの話ではない。ただでさえ難攻不落の城を相手に、兵糧まで差し出すようなことをしてしまったのだ。まさに本末転倒である。

やがて三成の部下がこれに気がついて、三成に報告した。普通は、農民に化けている敵兵を洗い出し、捕虜にするか、殺害するものだが、三成は余裕を見せて「放っておけ」と寛容なことを言った。三成は知将のためあの人は冷たい」と日頃から言われていることを気にしていたのだ。そこで、ここで温情を見せたかったのである。

 

当然、前線ではますます士気が下降する。緊張感も緩む。土木工事全体に、伸びたゴム糸のような弛んだ空気が支配した。その「弛み」は工事の各箇所の監督や点検に如実に表れた。特に、敵兵が化けている人夫がいるところは、敵に悟られまい、という気配りをするので大目に見てしまう。「ご苦労、ご苦労」で通り過ぎてしまった。

 

やがて工事は完成した。石田軍は包囲の体制に入った。そして雨が降り始めた。城を囲んだ堤防の中の水位が上昇し始めた。この分だと、敵がいくら工事で稼いだ米を持ち込んでいたとしても、やがて兵糧は尽きるだろう、と思われた。補給路が絶たれたからだ。

しかし、ある夜、豪雨に襲われた。凄まじい勢いで堤防内の水位が急上昇した。「これで、すぐに落城するだろう。水浸しになった忍城からは、おそらく降参の使者がやって来るに違いない」石田軍の誰もがそう思った。

 

ところが、突然、堤防の一部が決壊したのだ。堤防内の水が一斉に石田軍を襲った。石田軍は水に溺れて大量の溺死者を出してしまった。慌てふためいた石田軍の包囲網は破れ、総崩れとなった。

 

決壊場所は農民に化けた敵兵が工事した所だった

これは明らかに、過度の温情を示して格好をつけようとした三成の誤算が原因であった。

この事例から学べることは、知将はやはり「知」で勝負すべきだということである。柄にもない温情を示すと文字通り「自らの墓穴を掘る」ことなるという痛い教訓だった。

 

頭の鋭いリーダーがいつも気にすることは自分は冷たい人間だと思われていないかということだ。これはどうあがいても業みたいなもので、知的な人間が温かく見えることはまずないのだが、そういう悩みを持つ人は多い。

しかし、三成のように変に温情ぶったりすると必ず失敗することになる。頭の良い人間は、むしろ、常に頭の良さを活かすことによって、自分の存在意義を確立すべきなのだ。

「あの人は頭が良いから冷たい」と言われるのは、実は褒め言葉なのである。