里見忠義(さとみ ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名である。安房里見氏の当主里見義康の長男で、安房館山藩2代藩主だった。慶長十九年(1614年)、「幕法違反」という名目で事実上の御家取り潰しとなった。
大坂の陣で「今後は日本国内では戦をさせない」ということを宣言した家康は、その後の日本の政治をそういう方向性で営んだ。平和になれば、当然「武官」よりも「文官」が重用されるようになる。軍人は不要になり、経営者が必要な時代に転換したということだ。
この新しい時代の「経営者」は考え方がドライだ。古い価値観を否定し、能率主義や成果主義を持ち込む。軍事力よりも経済力に重点を置く。組織をそういう方針でどんどん改革を進める。そうなると、古い層は窓際へと追いやられ、落ちこぼれる。
しかし、古い層は新時代へと対応できず、結束して組織改革に反対したり、新権力層の足を引っ張ったりする。里見家が潰された理由はこの古い層のボスと深く関わってしまったからだ。
改革の反対派(古い層)のボスは、小田原城主の大久保忠隣だ。大久保彦左衛門の一族である。忠隣は武官派の総帥で、人望があった。改革を急ぐ文官派も、この忠隣にはなかなか手が出せなかった。それをいいことに、忠隣の下に落ちこぼれ族が集結したのだ。里見忠義もその一人であり、大久保忠隣の孫娘を妻にした程、大久保に入れ込んだのである。
古い型の人間の原理は「和」と「情」である。闇のボスは任侠心が強い。忠隣もそうだった。そして落ちこぼれ族の総帥として何よりもこの和と情を重んじたのだ。彼は日常、仲間の冠婚葬祭を大切にした。それが忠隣流の和と情だったのだ。
ある時、忠隣の息子が病気になった。実力者だから、見舞客が小田原城に押しかけた。それも大勢である。江戸にいた忠隣は気になって仕方ない。「家の者たちはちゃんと見舞客を接待しているだろうか」という心配である。武官派のボスの家らしい接待をしてくれないと己が笑われる、と気が気でないのだ。
そこで、忠隣は経営官僚の老中に休暇願を出した。その理由は「息子の見舞客接待のため」というものだった。文官派は唖然としたが、忠隣としては精一杯の皮肉のつもりだった。忠隣の休暇願に老中たちは当然、呆れ果てたが、文官派のボス本多正信は笑って「放っておけ」と言った。そして「そんなことをしていれば、いよいよ衰亡の速度が速まるだけだ」と。
小田原に戻った忠隣は、すぐ見舞客に大盤振る舞いを始めた。ご馳走になって、見舞客たちは気勢を上げた。口々に文官派の悪口を叩いた。里見忠義も、もちろんその中の一人だったのだ。
忠隣は見舞客の接待に莫大な金を使った。その金は、家康のために日本中の金山を掘って歩いている大久保長安という男が出した。長安も忠隣派の一人で、日々豪勢な生活をし、幕府から目を付けられていた。
忠隣は小田原に滞在し、なかなか江戸へ戻らなかった。心配して忠告する者もいたが、忠隣は超然とした振る舞いを改めることはなかった。それどころか、ますますつけ上がったのである。
こんなとき、徳川家康が千葉方面で狩りをした。地域の大名は、争って挨拶に行き、魚や酒を届けた。特に、魚は新しいものを漁師から買い、馬で届けさせた。魚は家康の好物である。
家康は「うん、うん」と言って目を細めた。
しかし、家康が泊まっている宿に、一番近い所(安房国)にいながら、まったく挨拶に来ない大名がいた。里見忠義である。
家康が、「奴はどうした? 病気でもしているのか?」と聞くと、部下は「いえ、小田原に行っております」と言う。
「里見殿は大久保忠隣のご子息が病気なので、その見舞いだそうです」
これを聞くと、家康は「フン」と言い、不機嫌になってしまった。このことを聞いた近所の大名が注意し、里見家から急使が走った。しかし、忠義は「これくらい、いいだろう」と高を括った。驕っていたのである。
家康は鉄槌を下した。大久保長安を処断し、大久保忠隣を罰し、里見忠義も事実上の改易という形で罰した。
「たかが挨拶を怠ったくらいで」と忠義は憤慨したが、彼は家康の本当の怖さを知らなかった。また、その方針の堅さも知らなかった。日本中での改革は徳川幕府存続の最大方針だったのだ。
こうして里見家は御取り潰しとなったのである。強力な派閥に属しているから、といって安心し、驕った末路であった。
時代の転換期という意味では現在はまさにそうである。こういう時、必ず取り残される者たちが出てきて徒党を組み、時代の逆行を図る。しかし、それは必ず失敗することは歴史が証明している。
常に時代は変化している。大局を俯瞰し、時代の変化に適応することが生き残るための最低条件なのである。
特に、家族を養っている者、部下がいる者たちの行動における責任は重大だ。
昔は良かった、では済まされないのである。