豊臣秀吉は若い頃「上役に部下を選ぶ権利があるのと同様に、部下にも上役を選ぶ権利がある」という考えを持っていた。松下喜兵衛の家を出されたときも、「私はクビになったのではない。私が主人をクビにしたのだ」と言っていた。
負け惜しみもあっただろうが、それが学歴や資産もなく、裸一貫の実力だけで生きる彼の気概でもあった。
秀吉は、織田信長に仕えると「この人こそ、長年自分が求めていた人物だ」という強く思い、とにかく信長の目に付くことばかり考えた。
城の便所に潜り込んで小便をかけられながら「やい、木下藤吉郎に小便をかけるのは誰だ?」などと言って自分の名前を徹底的に宣伝した。あまりに激しい自己PRに周囲の者が眉をひそめた。
ついに先輩たちは「新参者は目立たないようにつつましくするべきだ」と注意した。
ところが、秀吉は「いや、こういう乱世では新参者こそ目立つようにするべきです」と反論した。
先輩たちは「可愛げが全くない」と呆れた。なかでも柴田勝家は、こういう秀吉を「生意気な奴だ」と目の敵にしていたが、秀吉は気にしなかった。
秀吉は「この城(会社)の最大の実力者は信長様だ」と一途に思い込み、とにかく信長に気に入ってもらえるように腐心した。初めは「調子の良い奴め」と警戒していた信長も、次第に秀吉の熱に胸を打たれた。調子が良いだけでなく、秀吉は仕事も良くできたからだ。
秀吉が信長に仕えたのは18歳のときである。20年後、信長は「秀吉を長浜(滋賀県)の城主にし、大名にする」という意向を洩らした。現代で言えば、無学歴の、言わば給仕のような形で入社した30代の社員をいきなり常務にする、と言うことと同じである。在来の重役や人事役は驚いた。柴田勝家も、もちろん反対した。
そういう自分の人事を巡る城中のの声が、秀吉の耳にも入ってくる。特に柴田勝家の反対ぶりが聞こえてくるが、秀吉は「重役がいくら反対しようと、社長がその気なら無駄なことだ」と、心の中でせせら笑っていた。
そして秀吉は晴れて長浜城主となった。すると、間もなく秀吉の耳に「柴田勝家殿が、秀吉の人事は私がやった、と言っているぞ」という噂が飛び込んできた。秀吉は「何を馬鹿な?」と驚愕した。散々反対しておいて何を言っているのだ!と腹が立った。
しかし、どことなく気になるので先輩の丹羽長秀のところへ行って事の真偽を尋ねた。丹羽は
- 柴田の言うことも一理ある
- 確かに最初は反対していたが、信長様がどうしてもと言われるので、柴田は最終的に賛成した
- 柴田が最後まで反対していたら、お前の大名は実現していなかった
以上の三点を秀吉に告げた。
秀吉は考え込んだ。頭の鋭い彼のことだ。丹羽の言うことはよく理解できた。そして秀吉はすぐに柴田勝家のところへ挨拶に行った。
柴田はニコニコと笑顔で応対し、「もうこだわりは無い。同僚として仲良くやろう。頑張れ」と秀吉の肩を叩いて励ましてくれた。秀吉は丹羽から「羽」、柴田から「柴」の字をもらって「羽柴」と名乗った。秀吉は実に要領の良い男であった。
現代の企業の人事も各々会社によってやり方は違うが、人事異動というのはとても難しい。極力、公正な人事を行おうとするが、人間社会の縮図だからなかなか理屈通りにはいかないものだ。
しかし、出世するにしても左遷されるにしても、必ず理由がある。組織の中では能力だけではなく、人間関係もものを言う。そうした「能力」と「人間関係」の総合評価が結果としての人事異動になるのだ。
そうは言うものの、人事異動が済むと、必ず奇怪な現象が発生する。それは、際立って出世した人間の人事を「あれは自分がやった」と主張する者が大勢出てくることだ。
こういうとき、出世した当の本人が困惑することになる。事実かどうかを確かめる手段は現実には無いからだ。
この場合、どうしたら良いのか、というお手本が上記のエピソードである。
迷ったら、挨拶に行けば良いのだ。先輩に頭を下げても角が立つわけではない。むしろその逆であろう。
実際、一人の人間の出世は、多くの先輩たちの支持によって実現するものだ。卓越した社長一人の判断ではない。
普段、自分に悪意を持っていると思われる人間が、意外にもそうではない場合もあるということを覚えておきたい。