内藤義概(ないとうよしむね)は、陸奥磐城平藩の第三代藩主である。内藤家は三河以来の譜代で名門であり、支族は信州高遠の藩主で、その邸宅は今の新宿御苑であり、内藤新宿の名もここから発生した。

義概は文化人だった。俳人で西山宗因の高弟である。風虎などの俳号を持っていた。相続人には息子の義英を立てていたが、この義英は父親に輪をかけた文化人で、彼も露沾という俳号を持ち、六本木の邸宅はさながら芭蕉門下のサロンと化していた

父と子は大変に気が合い、内藤藩政の文化化」を目指した。そのためには何よりも藩士(社員)の意識改革士気高揚を図らなければならない、と二人の意見は一致した。

 

父の義概は熟慮の末、「社訓」を作ろう、と息子に提案した。息子の義英はそれに賛成した。

  • 藩存在の目的は、何よりも領民の生活安定にある
  • 侫人の多言が藩を危うくする

侫人とは「口先巧みにへつらう、心の邪な人間」のことである。

こうして、主権在民思想王道政治理念の二つを盛り込んだ理想的な社訓に決定した。

そして父の義概は息子の義英にこの社訓をもって藩政を任せようとした。自分は隠居する、と。

息子の義英は顔色を変えて断った。「自分は風流人で、経営者の器ではないというのが断った理由だ。
しかし、父の義概はこのとき既に幕府に、「相続人は義英」であると届け出をしてしまっていたのである。

こうして珍しく親子喧嘩が始まった。自分たちで決めた社訓に沿ってどちらが藩政を指揮するのか、という押しつけあいだ。
自分たちで決めた社訓があまりに理想に満ちた観念的なもので、現実的ではないことをお互いに解っていたのだ。

壮絶な言い争いの末、父の義概は息子の義英の言い分を認めたが、既に発令してしまった社訓を取り消すことなどできない。あくまでもこの「社訓」による藩政改革を実行するしかなかった。

 

結局、父の義概は隠居義英は相続人辞退、代わって弟の義孝が家を継いだが、貧乏くじを引かされたようなものだったので、藩政の実権は家老の松賀族之助に移った。彼は大変な野心家だったので、この「棚からぼた餅」を大いに喜んだのだった。

誰もが予想していたとおり、松賀は己の権勢だけを考えた藩政を行い、領民に対して重税を強いて苦しめた。彼は義概の作った「社訓」をフルに悪用したのである。人事を自派で固め、忠義の臣は「侫人の言うことは聞くな、と社訓にある」と言って全て退けた。

藩政を心配する者たちはグループになって松賀に対抗したが、これに対して松賀は処罰と左遷で報復した。

藩内の空気は極度に険悪化してしまったのである。
こういう無責任な父と兄の下で家を継いだお人好しの弟の義孝こそ、いい迷惑だった。藩内の運営の混乱は極限に達し、特に派閥抗争が凄まじいものとなった

しかも、それぞれが自分の言い分の根拠を「社訓」にしたため、社員をまとめるどころか、組織は壊滅的な状態に陥ってしまった。

やがて一揆が発生した。内藤家はその責任をとらされて日向(宮崎)の延岡に転封処分となった。

トップが堅実な現実的経営から逸脱し、「観念的な精神主義」を執った悲劇(いや、喜劇か?)であった。

 

現代の日本企業はこれまでの「鎖国」的な土壌からグローバル化への変革を求められている。企業も自己体質の改革に努力しているが、これをはき違えると、とんでもない目に遭うというのが上記のエピソードである。あくまでも経営という礎石の上で、改革を考えないと失敗してしまうのだ。

特に、現実から乖離した理念先行精神訓話だけでは、現代の激動期は乗り切れるものではない。精神訓話への依存度が高くなったら、既にその企業のトップは統率者としての能力を失っている。

社是社訓の創始者の多くはは近江商人や伊勢商人だが、彼らが社訓を作ったときには、家業(企業)の基礎をしっかりと固めていた。十分な自信と、将来への発展予測があり、それを練り固めるためにいわゆる「社訓」を作成したのである。

あなたの勤めていている会社の「社訓」はどうなっているのか? 今一度、確認を要するだろう。