二代目というのは、周囲の目が厳しくて、一挙手一投足がぎこちなくなるものだが、徳川二代将軍秀忠も、その意味では気の毒な評価をされた。初代の家康と三代目の家光が傑出していたからである。
しかし、家康は「守成は創業より難し」として、秀忠は父である家康の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待され、結果としてそれによく応えたと言える。
特に、秀忠ほど部下の評判が良かった人物はいない。それは、彼が自ら「将軍機関説」を唱え、実行していたからである。部下の創意を重んじ、自らはその結果に対して責任を負った。これでは部下としていい加減な仕事はできない。
部下たちは「下手を打つと秀忠様を窮地に追い込んでしまう」と言って、みんな十分に注意や覚悟をしたのだ。
秀忠は、そういう部下たちの中から、毎月日を決めて、「先月の優秀社員」を選び、ご馳走することにしていた。一対一で酒を飲み、ご馳走を食し、忌憚なく話をするのである。わざとらしさが無いので、この「ご馳走」にあずかることは、部下たちの大変な名誉となった。
あるとき、野間という部下が、この「ご馳走」にありついた。しかもご馳走は秀忠が狩りで獲ってきた鶴である。
吸い物にした鶴を小姓が捧げて持ってきた。平伏している野間の前に置いた。ところが野間は、目前に将軍秀忠がいるので全身がこわばるほど緊張していた。
秀忠が「椀を取って鶴の汁を吸え」と言うと、野間は「はっ!」と答えて、いきなり膳ごと宙にひっくり返してしまった。あまりに勢いよくやってしまったので、膳の上で椀が転び、汁は野間の首筋から襟の中に流れ込んだ。一同は、「あっ!」という表情をした。
当然、野間はうろたえた。汁で背中が熱いがそんなことは言ってられる状況ではない。この失態をどうするか。切腹か?
野間は恐る恐る上目遣いに秀忠を見た。ところが、秀忠はいつの間にか目を閉じてこくりこくりと居眠りをしている。野間は覚悟を決めて秀忠をじっと見つめた。
しかし、秀忠は目を覚まさず寝言のように言った。「鶴の汁をもう一杯」
機転を利かせた小姓が厨房に走った。そして改めて鶴の汁を持ってきて、野間の前に置いた。にっこり微笑みながら、野間に「どうぞ、お召し上がりください」と言った。
野間は「ありがとう」と言って、汁を吸った。
やがて秀忠が「う、うむ…」とつぶやいて目を開いた。目の前で汁を吸っている野間に気がつくと「やあ、野間、うまいか?」と聞いた。
野間は「はっ、ことのほか」と平伏した。「ことのほか」という言葉に万感の思いが溢れた。野間の肩が小刻みに揺れた。背中にこぼれた汁の熱さのためではなかった。
管理職が平社員と違うのは、その管理職の者に「人間的魅力があるかどうか」「人間としての器量があるかどうか」だ。
仕事上の指示が的確だとか、上下左右のとの人間関係が良好だというのは管理職にとっては、当然の条件である。
では、管理職の魅力や器量というのどうすれば良いのか。それは「わざと隙をつくる」ということだ。どこもかしこもびっしり塗り込めて、呼吸さえできないような緊張感を取り去ることである。
これは仕事上の話ばかりではない。むしろ、仕事以外のちょっとした行動に表れるものだ。
世間には管理職としての「率先垂範」を誤解している者がいる。仕事、仕事とトイレに行く間も惜しむ。昼食も絶対に外に出ない。弁当などを自席で食べる。食べながら自宅で購読していない新聞を読む。部下を呼びつけてくどくど注意をする。まるで、注意は仕事の内に入らないから昼休みにやる、といった態度だ。
しかも、誰よりも早く出社し、誰よりも遅く退社する。帰りには残業をしている部下に「飲みに行こう」と誘う。それだけならばまだいいが、一次会で済まず、二次会、三次会のハシゴも部下につきあわさせる。そして最後には一人残った部下に、郊外の自宅までタクシーチケットを持たせて帰らせる。たとえ、それらの費用をその上役が払ってくれたとしても、部下にしてみればこういう上役は最悪だ。
少しはいなくなって欲しいのである。少しは放っておいてほしいのである。昼休みの時間くらいは会社の外に出て行って欲しいし、注意は勤務時間中に喫茶店に呼び出してそっとやってもらいたい。
皆のいる職場でしかも大声で部下を叱責するようなまねをする管理職は失格にすべきである。
夜、飲むときも消えてもらいたい。いや、その前に部下が残業していても「先に帰るよ」でいいのだ。
私は日本企業でこういう最悪な上司ばかり見た。外資系に転職した最大の理由である。
こういう最悪な管理職がのさばっている企業は到底、グローバル化の波に乗ることはできまい。
現在、従来の日本の大企業が次々と倒れ、外資がどんどん入り込んできている。これは、こうした日本企業の風土が組織改革・管理職の意識改革の遂行を妨げているということが原因の一つだろう。
徳川秀忠の爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいものだ。