藩政改革の成功者、上杉鷹山は江戸時代屈指の名君として知られている。右の写真は上杉鷹山像である。「成せば成る 成さねばならぬ 成さぬは人の 成さぬなりけり」とは鷹山の有名な言葉である。この鷹山の優秀なブレーンは実は元々は左遷された者たちだった。
この時代は今のように政治・経済・文化の中枢機構が全て江戸に集中しているわけではなかった。だから、サラリーマンの勤務地というのは「東京(江戸)勤務を命じる」と言われても、必ずしも栄転ではなかったのだ。
藩を企業に例えれば、それぞれ本城のあるところが本社だから、江戸藩邸は、参勤交代のための支店あるいは出張所である。
幕府の要職に就いている大名なら別だが、、そうでない大名にとっての江戸生活は、幕府への「人質」生活でしかない。
そのため、こういう藩での江戸勤務は「左遷そのもの」だった。特に、仕事に意欲を持っている人間は、江戸に来ると、誰もが「一日でも早く藩に帰りたい」という「本社志向」あるいは「帰巣心」を強く抱いたのだった。
さて、上杉家だが、上杉謙信以来の名門の家系だが、徳川家の譜代ではない。二代景勝は関ヶ原の合戦において石田三成に味方し徳川家康に敵対した。そのため、明治維新まで「外様大名」として扱われ、ついに幕閣に連なることはできなかった。
江戸支店には左遷組が配され、時期によってはこういう左遷組の人事の吹きだまりになったのである。
上杉鷹山は宮崎の高鍋から養子に入ったが、世子(せいし)時代は幕法によって江戸の藩邸にいた。世子というのは世継ぎのことなので、本国居住は許されない。大名の正妻と共に、人質なのだ。
この鷹山の生活の面倒を見たのが、当時の江戸左遷組だった。竹俣、莅戸(のぞき)、佐藤、藁科松柏(わらしな しょうはく)などがいた。
竹俣は、米沢本国で重役の一人が商人と癒着して私腹を肥やしていることを知って、この重役を刺し、商人を殺害してしまった。本来なら切腹だが、由緒ある家柄なので、懲罰の意味で江戸に飛ばされた。
莅戸は生真面目で誠実な中堅幹部だったが、周囲の、仕事よりも処世術重視の連中と馬が合わず、孤立してしまい、江戸に飛ばされた。
佐藤は若いが、頑固一徹血気盛んでなかなか言うことを聞かない。上役にはすぐ食って掛かる。「とても本国では手に負えない」ということで、これも江戸へ左遷。世子鷹山の小姓(秘書)を命じられた。
松柏は医者だがあまりに正義感が強く藩医の立場でありながら、しばしば藩主に説教するものだから藩主に嫌われ、江戸藩邸づきの医者として飛ばされてしまったのだ。
こういう連中が集まったものだから、寄ると触ると米沢本国人の悪口ばかりである。自分たちを飛ばした重役陣を罵り、またそういう重役の言いなりになっている現藩主を非難する。
この状況に水を差したのが、医者の松柏であった。
松柏は左遷組の連中に説いた。
「悪口からは何も生まれない。それよりも、現藩主の具体的にどこが問題点なのか。そして具体的な改革案を議論しようではないか。その議論の内容を文書にまとめておくのだ。幸い、我々には暇を持て余すほどの時間がある。文書に残すことで、誰か慧眼の士に拾われることもあるかもしれない」と。
実は松柏には既に「慧眼の士」の目算があった。現在面倒を見ている世子の鷹山である。鷹山は左遷組の師、細井平洲(ほそい へいしゅう)に学問を教わった。その線で、この養子殿は見どころがあると考えていたのだ。だから、左遷組の反撃の機会を鷹山に作ってもらおうと、心中密かに抱いていたのである。
同時に、自分自身も左遷組である松柏は、左遷組が巻き返すには大きな自己改革が必要だと知っていた。とは言っても、自分一人だけが改革してもどうにもならないこともよく分かっていた。そこで、チームを組んでみたら良いのではないか。そう考えたのである。
特別チームを組み、目的意識を持つことで、ネガティブな感情を捨て、ポジティブな議論が出来る。幸い、左遷組とは言いながらもここには元来有能な者達が揃っている。変わるべきは自分たちの「考え方」なのだ。
こうしてこの松柏のアイデアは成功した。極度の財政難に苦しむ上杉家の当主になった鷹山は「イエスマン」を嫌った。そして、この特別チームに目をつけ、その研究成果を採用したのだ。その頃にはチームの面々も別人のように考え方を変えていた。
上杉鷹山の藩政改革を成功させたのは、まさにこの江戸左遷組だったのである。
最後に藁科松柏の辞世の句を紹介したい。
『今朝の露とわれも消えけり草の陰』
上杉鷹山の結婚式の翌日に肺結核で死去。33歳という若さで惜しまれながらこの世を去った。下の写真は松柏像である。