とかく中間管理職というのはいつも上からは叩かれ、下からは突き上げられる、板挟みのような辛い役職だ。
この中間管理職という層の仕事の一つに、トップの秘書との接触がある。
報告、決済の判をもらうときの説明、あるいは自主的な情報提供など、意識、無意識の「自己売り込み」は、部下と組織のためにも必要だ。
「誠意と能力さえ発揮していれば、どんな部署にいても必ず有能な者はトップの目にとまるはずだ」という超然主義は組織の中では通用しない。組織が大きくなればなるほどそうだ。
「まず、トップに存在を知られること」は飛躍的な昇進には欠くことのできない条件である。
トップの秘書はその媒体だ。しかしそこで、秘書への対応というのは中間管理職にとって大変難しい仕事になる。
秘書にも良い秘書と悪い秘書がいる。良い秘書というのはトップの思考や性格というものをよく理解していて、補完機能として優秀なだけでなく、自己の見識も持っている秘書である。
悪い秘書というのは虎の威を借る玄関番で、トップの権威を自分の権威だと勘違いしている者だ。
良い秘書は形式よりも内容を重んじ、悪い秘書は内容などどうでもよく、形式に拘泥する。そして良い秘書の場合には、トップに対して下記のような基準を設けている。
- 会わせるべき(入れるべき)人・情報
- 会わせた方が良い(入れた方が良い)人・情報
- 会わせない方が良い(入れない方が良い)人・情報
- 会わせるべきでない(入れるべきで無い)人・情報
そして、良い秘書はこの基準によって行動する。単なる玄関番ではないのだ。しかし悪い秘書は、接近者の服装・態度・言葉遣いなどを重んじて、自分への口の利き方次第で会わせるか会わせないかを決めてしまう。
柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)は、五代将軍徳川綱吉と組んで元禄政治を展開した人物だ。小姓(現代で言う秘書課員)から出世し、最後は側用人・大老格になった。側用人というのは現代で言う官房長官だが、彼の場合は大老格、つまり総理大臣より上役だったのだ。
小姓から成人して側用人になると、彼は「良い秘書の基準」を厳しく適用した。どんなに将軍と懇意であろうと、実力者であろうと、「会わせるべきでない」と判断したら絶対に会わせなかった。
であるからして、「あの秘書は生意気だ」という悪評が流布されてしまう。しかし柳沢はそんなことは一切、気にも留めなかった。
「それが私の職責である」と割り切っていたのである。
そして管理職になると、管理職仲間と相談して「悪い秘書」を次から次へと組織から排除した。
特に「目から鼻に抜ける利口者」(物事の判断が素早く、立ち回りも抜け目がない者)の排斥運動を行った。将軍にも直訴したくらいの徹底ぶりである。口が達者で立ち回りばかり上手な人間は、トップへの真実味が薄い、と判断したからである。
彼は「トップに対しても公平・公正でなければならない」と考えていたし、自分自身も秘書時代にそれを実践した故、新しい秘書にもそれを求めたのだ。
そうしない者や出来ない者は、秘書として不適格であると判断し、管理職連合で秘書を牛耳ったのである。
「トップの秘書にはゴマをすらない。一人の人間として接すること」。それが中間管理職の持つべき気概であり、見識なのである。
私自身も中間管理職からその上の管理職を務めた経験があるが、中間管理職というのは本当に難しい職位であった。思い出すだけで青息吐息である。