徳川頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。母は側室の養珠院(お万の方)である。
元和五(1619年)年、頼宣は紀州藩主となり、国入りをした。海路をとって、ある港から上陸した。ちょうど夏の頃で、岸には麦がムシロの上にたくさん干してあった。
頼宣は、その麦を踏まないように、ムシロの端を気を遣って渡った。出迎えた領民は感動した。「ありがたい殿様が、おいでになった」と喜んだ。
頼宣も気をよくして、機嫌良く和歌山城に入った。
しかし、供の中で、お付き家老の水野重良だけは終始渋い顔をしていた。彼は頼宣が城に入ると港に戻った。そして「今日の出迎えの責任者は誰だ?」と聞いた。
ある役人が「私でございます」と得々と名乗り出ると「今日の始末は、まことに不届きである」と、厳罰に処したのだ。
これが頼宣の耳に入り、水野は呼び出された。
「なぜ、出迎えの役人を罰した?」
「麦をムシロに干したからでございます」
「麦は私が避けて通って、評判が良かったではないか」
「あのような気配りは紀州の太守がなさることではございませぬ」
水野は、役人がムシロに干した麦を取り除き、殿様が通る道を作るべきだったと考えていたのだ。もちろん、殿様が上陸することは役人には事前に知らせていた。頼宣を歓迎して出迎えさせるためである。
頼宣は白けた。しかし、水野は自分が正しいと信じていた。同僚が「少し言い過ぎではないか?」と忠告すると、水野はこう答えた。
「殿の補佐に当たる者は、主人に何をさせるかだけを考えればよいのではない。時には何をさせないかも大切なことなのだ」
このことはやがて頼宣の耳に入った。頼宣は「確かに水野の言うとおりだ。一国の太守としてやっていいことと、そうでないことがある」と反省したのだった。
「誰が猫の首に鈴をつけるか」というのは、いつでも大問題である。特に、方向を見失ったときの企業では、トップが目を血走らせ、なんでもやろうとする。
そういうとき「まず、落ち着いてください」と進言するからには、その者がよほど腹を据えていなければならない。
その場限りの口先だけで御機嫌をとろうとして、事態を取り繕うのが一番良くない。また、そういうときに必ず湧いて出てくる「社内評論家」は、まず放逐し、あるいは黙らせなければならない。
意見と訳知り評論とは、まったく違うのである。その違いを明確に見極めた上で、意見というものは広く率直に聞くべきなのだ。