歴史上の人物には、必ず実像と虚像がある。史実でたどる実像と、テレビ・映画・小説などで創り上げる虚像とが、まったく違う人物がいる。
虚像の三大スターは、水戸黄門・遠山金四郎・大久保彦左衛門だ。三人がなぜ虚像なのか詳細は割愛するが、下記のようなことが、その理由として挙げられる。
- 水戸黄門は全国漫遊などしていない
- 遠山金四郎はエリート官僚で、決して庶民の味方ではない
- 大久保彦左衛門は落ちこぼれ老社員で、天下のご意見番などではない
なかでも大久保彦左衛門は悲劇人で、彼が如何にして落ちこぼれたかは、彼自身が『三河物語』という本に書き残している。
『三河物語』は、徳川家康が人質になっていた頃から、松平家に仕えていた三河武士の忠誠ぶりを綴ったものだが、大久保は特に「俺は俺の家の忠誠ぶりを書く。他の家のことは書かない。他の家は、自分たちで大いに誇れ」と前書きして、大久保家の勲功を書き並べる。
これには目的がある。この本は自家の勲功をこれでもか、これでもか、と書いた後「その俺が、今は完全な窓際族にされている。俺の子よ、これでいいのか?」と、自分の子に尋ねる形式で構成されている。
あくまでも子にあてた遺書の形をとっているが、現在、この本の原本が100近くある。ということは、当時、如何に多くの大久保に共感する落ちこぼれ族がいたかを物語っている。
大久保の考え方はめまぐるしく変化する時代に対しての認識のズレがあった。パソコンの時代にあくまでもソロバンで通そうとするような頑固さがあったからだ。
徳川家康が死んだ後、二代目秀忠、三代目家光にも仕えた。無責任な言い方をすれば、それほどまで「俺は家康公に忠義を尽くしたのだ」と威張るなら、何故、家康が死んだときに殉死しなかったのだろう。徳川草創期にはまだ殉死は禁じられていない。
昔のことばかり誇る大久保は、二代目、三代目にも疎まれただけでなく、周囲の社員にも嫌われた。特に若い社員に嫌われた。大久保は自分の意思で「嫌われ者」「落ちこぼれ」の道を歩いて行った。これが「天下のご意見番」の実態なのだ。
心配する者がいなかったわけではない。管理職の中には「時代は変わったのだよ」と忠告する者もいたが、大久保はこれに対してムキになって反抗した。誰の忠告にも耳を貸さない大久保はいよいよ嫌われ、孤立感を深めていく。
そうなるとますます周囲に嫌がらせをする。堂々巡りが続き、大久保はトランプの「ババ」になる。人事異動の度に抱えている課長は出したがるし、押しつけられる課長は取りたがらない。結局、所属不明の、どこの課にも属さない部署か、資料課の隅に机が置かれるようになる。
これは両方に問題があるのだ。
まず大久保も悪い。通用しなくなった夢を抱き続け「昔は良かった…」と言ってばかりいても、いま(現実)の方が情勢は厳しい。昔の良さで、いまの世は乗り切れない。大久保は自分を変える必要がある。
また、トップや中間管理職にも問題がある。家康自身が、ときには大久保に「おい、今夜つき合えよ」と、酒でも飲みながら「昔は世話になったな」と、なぜ慰めなかったのか。二代目、三代目も「初代が世話になった。私もよろしく頼む」と食事でもおごってやらなかったのか。
そして、トップができないならば、なぜ中間管理職がその代行をしなかったのか。慰め、いたわるだけではなく、時代の様変わり、それに応えるための企業の変化、社員の自己改革の必要性をじっくりと納得させるべきなのだ。
得てして、こういう「牢名主」的落ちこぼれキャリアには、その意を迎えることに一所懸命になってしまい、顔色ばかり窺う人がいるが、これは間違いだ。やはり、与えられている給料の源、社会的責任の存在は厳しく伝えるべきである。
「敬して遠ざける」という人事のたらい回しでは、大久保はいつまで経っても自分を変えない。対決が必要だ。しかし、その対決には憎しみではなく、虎穴に飛び込む勇気と愛情が必要なのだ。
ここでは大久保彦左衛門を具体例として挙げたが、こういう「社内牢名主」はどこの会社にも存在していることだろう。
「自分はこの会社創業時からの社員だ」とか「社長がガキの頃から面倒をみてやった」などと偉そうな物言いなのだが、肩書きばかりの窓際族。肩書きは管理職でも部下がいない部署の管理職。
扱いに困る存在だ。そして何かにつけて会議に割り込み、口を挟むので、まとまるはずの話もどこかへ行ってしまう。とにかく事前に「根回し」をしないと「さあ、聞いてないよ」とか「知らないよ」とかうそぶいて意地悪をする。
大久保彦左衛門のように過去に目覚ましい勲功があるならば、愛情をもって接し、時代の変化を少しずつでも理解させてやろうとも思うが、ただ単に長くその会社にいるというだけで他に何の取り得のない者も多い。
こういう人には管理職が団結して対抗するか、トップがその人物を断ち切るなどの英断が必要になってくる。
現在の激動期は「昔の良さ」だけでは、生き残ることは不可能だから仕方ない処置なのだ。
残酷なことだが、組織運営の支障となるガンは早々に取り除くに限るのである。