かつて米国のAT&T社が三分割したことで話題になった。この会社で主に製造部門を担っていたのはウエスタン・エレクトリック社だ。この会社のシカゴ工場で行われた「ホーソン・リサーチ」(1924~1932年)は、現代でも組織における人間関係論の教科書となっている。
このリサーチは、シカゴにある同社のホーソン工場の工員たちを対象に「人間はなぜ働くのか?」という、労働に対するモチベーションを調査したものだ。結果は従来の科学的管理法では経営管理論として不十分だと証明したものだった。
人間が働くのは生きるためだけではなく、5つの願望・欲求があったのだ。
① 生活の維持
② 生活の安定
③ 集団化
④ 人格の尊重
⑤ 自己表現
以上の5つである。
これからの管理職が、特に留意しなければならないのは、部下が内に抱いている④と⑤の「人格の尊重」「自己表現」の欲求を満たすことだ。言い換えれば、組織内における部下一人一人の人格の尊重と、一人一人が仕事を通じて表現したい、あるいは確かめたいと思っている願望の実現である。
同時に、部下を育て評価する基準は「成果」だけではなく、その部下が「何をやりたがっているか」という潜在的なものに関してまで意識しなければならない。それがこれからの管理職が生き残るための条件なのだ。
豊臣秀吉は木下藤吉郎と名乗っていた若い頃から現場の士気を高揚させることが得意で有名だ。
「長い槍と短い槍のどちらが良いのか」という有名な「長短槍試合」にしても単なる武器論ではない。あれは組織内で最も下位で蔑視されていた足軽が、織田軍の立派な戦力になることを実証してみせた事例である。
ここでは「長短槍試合」の詳細については省かせて頂くが、興味のある方はYouTubeで「長短槍試合」を検索してみて欲しい。面白い講談が視聴できるはずだ。ここでは、もう一つの秀吉の有名な逸話を取り上げることにする。
あるとき、台風で清洲城の塀が壊れてしまった。織田信長は普請奉行(ふしんぶぎょう)に修理を命じたが、工事は一向に捗らない。乱世の時代である。いつ敵が攻め込んでくるのかわからないのだ。現場は異様な緊張感に包まれた。
ここで秀吉が「自分だったらもっと早く直せるのに…」とつぶやいたのを信長は聞き逃さなかった。信長はすかさず秀吉に塀の修理監督を交代させた。
秀吉はまず配下の足軽達を集め、塀の修理箇所を10等分し、それぞれに分担させた。分担箇所を修理する組は足軽達に任せ、こう言ったのである。「一番早く修理を終えた組には信長様からご褒美があるぞ」と。秀吉は酒を出し、「工事は明日からで良い」と言った。一時的に工事人となった足軽達は喜んで酒盛りを始めた。秀吉は早々に酒盛りから引き揚げ、そのまま密かに信長の所へ行き、あるお願いをしたのである。
深夜になって、秀吉は信長を連れて工事人達の前に現れた。秀吉は「こいつら、酒を飲み終わってもまだこんな時間まで塀の修理の打ち合わせをしているのですよ。どうか一声かけてやってくれませんか?」と信長に言った。
信長は「ご苦労。早く修理を頼む」と言った。工事人たちの酔いはこれで吹き飛んでしまった。
工事人たちはすぐに工事を始めた。それも競い合って施工したので、なんと、朝までに修理は終わってしまったのである。夜中に信長に一声かけられただけで完全にやる気満々になったのだ。
この足軽達は普段から如何にトップから気にかけてもらえるか、望んでいたかよく分かる。翌日、信長は秀吉との約束とおりに、工事人達にねぎらいの言葉を掛け、第一位の組の者に報奨金を与えた。
この事例からの教訓。
- 仕事を漫然とさせるのではなく、各人の目標を設定し、やるべき仕事の量というものを明確にした
- 工事人という集団を組別の言わばプロジェクト・チームに再編成した
- 工事人達は自分の仕事の成果が明白になり、自他共に互いの評価の基準が成り立った
- 仕事に励みが出て、良い意味での競争心が発生した
以上のような点であるが、この事例において秀吉が何よりも重視したのは、組織のトップからの一声で工事人達に「存在意義」を持たせたことである。また同時にトップである信長も現場の重要性を改めて認識した。
秀吉は「ホーソン・リサーチ」の約400年も前に「人格の尊重」と「自己表現」を管理術として用いていたのである。
そして最後にもう一つ、重要な教訓がある。それは「会社が潰れるかも知れないような重大な仕事を、同僚がモタモタしているときは思い切って奪い取れ」という精神だ。その際の同僚との軋轢はやむを得ない。これは出しゃばりとかスタンド・プレーではないのだ。
火中の栗は気がついた者が素早く拾え。火中の栗こそがチャンスだ。これが秀吉流のやり方だったのである。