天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代の天保年間(1830年 – 1843年)に行われた、幕政や諸藩の改革の総称である。享保の改革寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる。

この天保の改革を行った人物は、老中筆頭の水野忠邦(みずの ただくに)である。芸能、娯楽を一切禁止し、女の職業を奪い、出版統制もした。
物価に厳しい制約を加えたので、同じ値で豆腐が小さくなったり、初物は全く食べられなくなった。特に、江戸・大坂などの町の灯が消えたようになり、ブラブラしている若者は全員農村へ返した(人返し令)。

民衆は猛然と非難した。悪評が日本中に満ち溢れた。実は、水野のこの政策を江戸で実行していたのが、町奉行の遠山金四郎である。同僚の鳥居耀蔵(とりい ようぞう)ほどの過酷さはないにしても、金さん水野の政策を止めてはいない。水野の忠実な部下だったのだ。だから、金さんは決して「江戸っ子奉行」でも「庶民の味方」でもないのだ。

 

さて、この当の本人、水野忠邦の評判は悪く、誰も褒める者はいなかった。しかし、水野は平気だった。
「信念に生きれば、よくは言われない」「人の噂を気にしていたら、何もできない」と平然としていたのだ。

水野は海防に特別な関心を持っていて、寛政の改革時に『海国兵談』を著し罰せられた林子平(はやし しへい)の名誉を回復した。また、「国防だ、国防だ!」と主張する水戸藩主徳川斉昭に、国防対策の顧問就任を頼んだ。

当然、斉昭は警戒した。評判の悪い水野と組んだら、他人に何を言われるか分からない。しかし、水野は洋学者を優遇し、高島秋帆(たかしま しゅうはん)江川英竜(えがわ ひでたつ)に大砲を作らせ、日本沿岸に堡塁を築いて、海防の実績を示した。

そうしておいて、斉昭にしつこく顧問就任を要請するのだ。斉昭御三家の一人で絶大な権力者だから、水野の狙いは、もちろん、抱き込みである。

 

最初は相手にしなかった斉昭だったが、ある日、腹心の藤田東湖(ふじた とうこ)を呼んで「水野がどんな男か試してこい」と命じた。東湖は受命し、策を練った。そして「水戸藩における国防改革案十三条」というのを作成し、水野に一条一条、意見を聞くことにした。

東湖はさっそく水野に会い、質問した。

東湖は第一条の案を述べ、水野の意見を待った。しかし、一向に答える気配がない。すると、水野「次は?」言った。東湖は二条目を語る。水野はまた答えない。「次」、三条、「次」、四条と繰り返した。

水野は答えずに「次」「次」と繰り返した。東湖はいまいましく思ったが仕方がない。根気強く語り続けた。十三条が終わると、「他に?」水野が聞いた。東湖「これで十三条すべてです」と答える。

「そうですか、では」水野は答え始めた。
「第一条は幕府に請願してください。ただし、請願は形式で済みますから私がなんとかします。第二条も請願の手続きが必要ですが、これは私の一存ではどうしようもありません。老中全員で相談します。第三条は貴藩の判断で、どうぞ自主的におやりください」
と、よどみなく答えた。

東湖は呆気に取られた。水野はただ単に「次は?」と聞いていたのではない。全部覚えていたのだ。そして、一度にまとめて答えた

なんと、頭の鋭い男か、と東湖は驚嘆した。「頭の良さ」の模範試合を見せられた気分だった。

しかし、水野は別段、それを誇る気配もなく「全体として良い改革案です。ただ、第四条と第八条は矛盾しています。是非、ご整合を」と言った。
そして「本日は他に都合があるので、これにて失礼。水戸様にどうぞよろしく」と言って出て行ってしまった。

東湖「完全にしてやられた!」と思った。しかし気持ちの良いやられ方であった。東湖は戻って斉昭水野を絶賛の報告をしたのだった。

 

もともと人間には「自分が自分に持っているイメージ」「他人が自分に持っているイメージ」とが、かけ離れているという宿命がある。特に社内の実力者には「あること」「ないこと」の噂がつきまとう。まったく予想もしないことがまことしやかに噂されていて「………という噂があるけど、本当?」などど聞かれ、「え?!」と驚くことがままあるものだ。

一般にこういう人々には「組織内有名税だ」として、何を言われてもあまり同情はない。言われる方も、その対応は千差万別である。よくあるのが、部下の若い女性とホテルから出てきたところを見られたとか、食事しているところを見られたとかいう話だ。

こういう場合、それが本当なら、妙な言い訳をせず、秘密保持もせず、一切黙っていた方が良い。噂になって「おまえ、部下の女性とホテルから出てきたんだって?」と聞かれたら「ああ、そうだよ」と素直に認めるべきだ。そして「あそこのレストランは料理がとても美味くてね。そこで部下の相談を聞いていたのさ」と済ませてしまえば良い。

変に狼狽したり、隠そうとするから怪しまれる。決定的なスキャンダルの現場さえ見られなければいいのだ。うろたえて噂をかき消そうとするのは器量の小さい証拠である。

 

上記のエピソードのように、水野忠邦は当時極めて評判の悪かった人物だが、頭の良さは確かだった。水野本人も自分の悪評に関して平気の平左だった。天保の改革は失敗に終わったが、現代のサラリーマン(特に管理職)も彼の振る舞いに見習うべきところがあるだろう。